「蜜蜂と遠雷」 恩田陸 (著)2017年02月05日



☆☆☆

直木賞受賞作ということで、話題になっていたので、読んでみた。ピアノコンクールを舞台に、天才少年、少女が活躍する音楽小説ということで、評判や紹介記事から期待した内容通り、という読後感である。コンビニのスイーツのように、最大公約数に受ける内容を厳選した、毒にも薬にもならないが、楽しく読める娯楽小説である。

努力しなくても、お金を使わなくても、音楽がわかったような、楽しめたような、そんな幻想を抱かせてくれる本だと思う。コミックでは、「のだめカンタービレ」、「ピアノの森」、「4月は君の嘘」、などが同じジャンルにあるが、コミックのほうが、まだ、展開の意外性や冗談性に意義がある。

この本は、クラシック音楽を目指す若者に纏わる、あらゆるステレオタイプを集めて、てんこ盛りにした感じで、嘘っぽさが目立つ。演奏の描写毎に出てくる聴衆の反応、「熱狂的な拍手が沸き起こった」、「嵐のような拍手が湧き起こった」、「万雷の拍手が彼を包む」、が何十回と繰り返される。なんか、映画やドラマのコンサート風景で、観客役のエキストラが総立ちで拍手しているような白々しさを感じてしまう。

そんな意地悪な読み方をしているが、面白く無いわけではない。ただし、登場人物を介して語られる作者の音楽解説の比重が大きく、かなり鬱陶しい。そこに興味を持てる人は別だが、そうでなければ、「読んでいない本について堂々と語る方法」(ピエール・バイヤール)の恰好の題材になれる本だと思う。

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉、 岡田 暁生(著)2017年01月20日



☆☆☆☆★

自分にとって楽しめる音楽と楽しめないものがあるのは何故だろう。人が感動したと言っているものが解らなくて悔しいと思うことがよくある。特に、それを語る人が、人間的に共感できる人である場合はなおさらである。それは、単に、感性の違いのようなものなのか、であれば、感性の違いはどこからくるのだろうか。感性が違うといっても、それは、質的な違いなのか、あるいは、量的な違いなのだろうか。感性を磨く、という言葉あるように、感じ取ることが出来ないのは、感度が不足しているということなのだろうか。

そういう、疑問に対して、私が始めたのは、能動的に音楽をしてみるということであった。遅まきながら、還暦を目前にチェロの練習を初めてみた。ただし、こちらの進捗は遅々としていて、演奏することで音楽に対する感性がどう変化するかの答えは中々出そうにはない。音楽が細部まで聞こえるようにはなってきたが。

そんな疑問の答えを探したくて手にした本が、岡田 暁生さんの「音楽の聴き方」。岡田さんの著作は、以前、西洋音楽史―「クラシック」の黄昏、 を読んで、明解で面白い語り口に関心した。この本からも、岡田さんの明晰な論理で、多くの示唆をもらうことができた。

●相性
ある音楽に共感するかどうかは、聴く人のうち形成されている価値観による。この価値観は、必ずしも個人的なものではなく、時代や集団により刷り込まれて形成された部分が多い。だから、時代ごとに、国により、あるいは社会階級により、異なる音楽が好まれるのである。だが、著者は言う、『とはいえ、音楽に対する反応がすべて「相性」のみに還元されてしまうのだとすれば、それではいかにも寂しい。』 しかし、『相性だの嗜好だの集団的な価値観の違いだのといったことを突き抜けた、... 超越的な体験』も、確かにある。それは、『ひょっとすると「未知なるものとの遭遇」であるのかもしれない』

●音楽を「する」/「聴く」/「語る」の分裂
18世紀までの音楽作品には、アマチュアが弾いて楽しむためのものが沢山あった。19世紀に入るとともに、音楽は専門化し、演奏するもの、批評するもの、聴くもの(一般聴衆)に分裂する。やがて、ラジオ、レコートの普及にともない、感動エピソードを売り物にする、巨大な音楽市場が生れる。そのような現状を、著者は、パブロフの犬になぞらえ、危惧する。ヒーリングミュージックの類の考えなくていい音楽、その究極は、どんな「感動」も思うままに電気刺激で再生が可能になる未来である。

●「音楽は国境を超える」
本書で、音楽が世界共通、というのが、如何に稚拙な主張であるかが、議論される。ある音楽に共感するには、共通の文法、文化の前提が必要であり、そもそもわからない音楽というのは、あり得るのだ。クラシック音楽に限っても、その解釈、演奏スタイルは、時代とともに変容している。作曲された当時と、現代の演奏とはずいぶん違うのであろう。音楽作品には、その時代やそれを聴き続けた人々の集団的記憶が積み重なっている。そういう作品の歴史を踏まえて輝かそうとするのがフルトヴェングラーの指揮であった。対照的に、トスカニーニは譜面がすべてであるとして、そういう歴史的背景、意味を捨象した。具体的な演奏では、例えばポリーニのショパンのあるフレーズのリズムの特異性を指摘して、こういう演奏の解釈の仕方(の可能性)を論じている。この本では、実例が沢山挙げられているので、実際に、演奏を確認しながら読むのが面白い。

●音楽は文脈と不可分
著者の主張は、以下の言葉に凝縮されている。「音楽は必ず文脈の中で鳴り響き、私たちは文脈の中でそれを聴く。歴史/文化とは音楽作品を包み込み、その中で音楽が振動するところの、空気のようなものなのである。」、「今の時代にあって何より大切なのは、自分が一体どの歴史/文化の文脈に接続しながら聴いているのかをはっきり自覚すること、そして絶えずそれとは別の文脈で聴く可能性を意識してみることだ」 まさしく、村上春樹の著書「意味がなければスイングはない」と同じ主張である。

●聞き上手へのマニュアル
本書の最後に、聴き上手へのマニュアルとして、著者のアドバイスがリスト化されている。これも、うなづけるところが多い。例えば、『「誰がどう言おうと、自分がそのときそう感じた」―これこそがすべての出発点だ』、『「理屈抜きの」体験に出会うこと』、同感である。ところで、『世評には注意』と、『多くの音楽は「語り部」のよしあしにより、面白く聴こえたり、退屈になってしまったりする』という、一見背反する意見も、音楽は文脈と不可分という側面を表すものだろう。世評という文脈の中で面白く聴ければそれもありだ。

Robert Schumann's Advice to Young Musicians: Revisited by Steven Isserlis2016年10月30日



☆☆☆★

以前紹介した、「シューマン著 音楽と音楽家」 の中に収められている「シューマンによる音楽の座右銘」に、スティーヴン・イッサーリスさんが、解説を加えた本である。英語の原書で、翻訳はまだないのだが、平易な英語で読みやすい。

イッサーリスは、日本でも人気のチェリストで、執筆や音楽教育にも熱心(ツイッターでも毎日、面白い発言をされている)

この本であるが、例えば、シューマンが、「合奏する機会があれば、逃さないこと。合奏は、よどみのない活き活きとした演奏スタイルを教えてくれる。歌手の伴奏も頻繁にすること」と書けば、イッサーリスが、次のような解説を加える。「演奏スタイルを学べることに加え、合奏に参加する最大の意義は、聴くことを学べることだ。聴くことは、おそらくもっとも重要な技術である。私たちは常に、作曲家や仲間の音楽家たちに耳を傾けなければならない。自分のパートの音だけ一音たりとも聞き逃さないように集中するような姿勢は避けるべきである。それは、ボールを持ったサッカー選手が可能な限り持ち続けて、チームの得点機会を失うようなものである(後略)」

もう一つ例をあげよう。シューマンが、「作曲の趣旨は、形式を理解しない限り明らかにならない」と書けば、イッサーリスは、「ソナタ形式の楽章を弾いた生徒に、今の曲の三つの主題を弾いてみてと問うと、ほとんどの場合、必死になって答えを求めて楽譜を探すための沈黙が訪れる。小説を読むとき、主人公がだれかを知らずに、そして、主人公に何が起こるかを知ろうとしないで読みますか?それと同じことです(後略)」

本質的なことは、シューマンが書いているのだが、とても簡潔で、すっと読めて記憶にとどめるのが難しいかもしれない。イッサーリスにより敷衍されたことで、より実用的な座右の銘になったと言える。

チェロはいいよ! Kindle版 はかせ (著)2016年10月25日



☆☆☆★

アマチュアチェリストによるチェロの入門書。Kindle Direct Publishing という、個人が直接、アマゾン上で電子書籍を販売できるシステムを使って出版されている。

著者のはかせさん、解剖学者ということで、チェロの演奏方法を大変理論的に解説してくれているのがうれしい。ポジション移動やボーイングなど、子供から習っている人や、音楽的センスに恵まれた人は、感覚で覚えるのだろうが、どちらでもない私のようなレートスターターかつ理系人間には、理屈で攻めるしかないし、それが唯一、子供より優れている能力なのだと思う。そういう側面からの理解を強調して解説してくれている本はあまりないので、参考になる。

また、この著者が面白いのは、チェロを自作されていることで、作ったチェロが演奏の年月とともに、音が成長していく記録など、大変、興味深く読むことができた。

文章は、独断的で、自慢が多いように感じられる。あまり広い範囲の読者に受け入れられるような本ではないが、よく言えば、読者に媚びていない本で、Direct Publishing ならではの本だと思う。下の動画が、自作チェロでの著者の演奏である。



「オーケストラの職人たち」 岩城 宏之著2016年10月17日



☆☆☆☆★

あまり期待せずに読んだのだが、とても面白かった。本書は、今は亡き指揮者の岩城さんが、オーケストラを支える様々な仕事を紹介するエッセイを「週刊金曜日」誌へ3年間にわたり連載したものをまとめたものだ。取り上げている仕事は、楽器運送業、楽団の遠征に同行する医者、写譜屋、チラシ配り屋、調律師、などだが、単に知っていることを書いているのではなく、毎回、綿密な調査を行って、インタビューしたり、実際にその仕事を体験したりして、記事を書いている。有名人が片手間に書いた雑記を想像していたが、かなりの労作である。きっと、著者は何事でもこういう姿勢で仕事をする人だったのであろう。

内容は、雑学であるが、それぞれに鋭い考察があり、単なる雑学を超えて、音楽や文化について、考えさせられること、感銘を受けることが多々ある。

先日、 ルソーが作曲家でもあり、童謡「むすんでひらいて」が彼のオペラの間奏曲から題材を得ているという記事 を書いたが、写譜屋の章で、実はルソーは写譜屋の元祖のような人だったことが紹介されている。生涯で、一万枚以上の写譜を行い、その仕事に情熱をもっていたらしい。今でこそ、パソコンを使えばだれでも綺麗な楽譜が書けるが、かつては、写譜する人のセンスや正確さが楽譜の読みやすさを決めたので、きわめて重要な仕事であったのだろう。

岩城さんの音楽に対する姿勢がよくわかるのが、「週刊金曜日」への一読者からの、「日本人がビートルズとまったく同じ格好、同じ歌い方で演奏したらただの物まねにしかならないでしょう? (中略) 一言で言ってクラシック音楽とは日本人が日本人であることを否定しなければならないのか?」という投書に対して、真剣に悩んで、答えを考える章である。 そんなつまらんこと聞くなという態度ではなく、相手と同じ土俵にたち、正面から受け止めようとする姿勢が立派である。楽器運送だって、商売でやってるんだからと片づけずに、その苦労や仕事の意義を、現場をみることで解釈しようとする。この姿勢が貫かれてるため、読んでいて、楽しくて、嘘くさくない文章になっている。

気楽に読めるが、特に音楽愛好家にはお勧めできる本である。

「言語起源論――旋律と音楽的模倣について」 ルソー (著), 増田 真 (翻訳)2016年10月01日



☆☆☆★
ジャン=ジャック・ルソーの「言語起源論」が、岩波文庫から新訳で登場した。私がこの本に興味を持ったのは、その半分が音楽起源論だから。この思想家は、人間の言葉の起源は、精神的な欲求、情念であり、飢えや、乾き、恐れ、などの本能的なものではないと考える。本来、生きるために他を遠ざけるのが獣であり、人間はその情念から社会を形成したように、言葉も情念から生まれた。ルソーのこの思想に、岡潔との繋がりを感じるのは私だけだろうか。

ルソーの思想に戻る。人はまず考えたのではなく、感じたので、最初の言葉は、詩人の言語だった。そして、その原始の言語には、音楽の起源ともいうべき抑揚があった。ルソーの考える音楽の要は旋律である。絵画に例えると、旋律が線や像を描くのであり、和音や音は色にすぎない。音色やハーモニーの美しさは、色の美しさと同様、自然のものであり、その効果は、物理的・身体的なものである。音楽を芸術にするのは、旋律である。旋律により音楽家は、見えないもの、聞くことができないものを、表現することができる。音楽は静寂さえ表現できる。

こういうルソーの論説の矛先には、当時、フランスの代表的音楽家であったジャン=フィリップ・ラモーがいた。ラモーは、和声楽の礎を築いた音楽理論家であり、和声を重視する彼の音楽、そして当時のフランス音楽全体がルソーには気に入らなかった。

本書の中でも、自国、フランスの音楽家に対する悪態がすごい。いわく、「和声だけを音楽の偉大な効果の源泉と見なすような音楽家がいたらわれわれは何と言うだろうか。われわれは、(途中略)フランスオペラを作らせるだろう」、さらに、タランチュラの刺し傷を音楽が直す話では、「ベルニエのカンタータは、フランス人の音楽家の熱を治したと言われるが、ほかの国の音楽家ならどんな国の人でも熱をだしただろう。」(ベルニエはフランスの作曲家)

とはいえ、ラモーの音楽は、ロマン派以降の音楽家に高く評価され、現代でも演奏されている。どんな音楽なのか、ラモーの曲を一つリンクしておく。ルソーは酷評したが、なかなかいい。



このブログを書くために少しルソーのことを調べて初めて知ったのだが、実はルソー自身も作曲をしている。youtube にあるルソーの作品の一つをリンクしておく。この曲、日本人なら聞き覚えがあるはずだ。



そう、童謡「むすんでひらいて」の元歌なのだ。

音楽と音楽家 シューマン (著)、吉田 秀和 (翻訳)2016年08月25日



☆☆☆☆☆
本書は、シューマンが1833年から1850年頃の間に書いた音楽評論を集めたものである。

この時代、1828年にシューベルトが若くして亡くなった直後であり、中期ロマン派の巨匠、ショパン、リスト、ベルリオーズ、メンデルスゾーン、などが活躍していた。後世に、掛け替えのない音楽的遺産として残されることになる数々の名作が、次々と生まれた時代、まさにその時代を生きたシューマンにより書かれた評論であり、当時の音楽界の雰囲気がひしひしと感じられる。

ショパンを発見した時の驚きは、ペンネーム「オイゼビウス」という分身を使い、『「諸君、帽子をとりたまえ、天才だ」といって、オイゼビウスが楽譜を一つ見せた』、と表現されている。

ベルリオーズの幻想交響曲に対する評論は、とても専門的で難しい。こんな難しい話だと読む進むのは難しいと感じるかもしれないが、尻込みする必要はない。シューマンの真意は、「しかし僕としては狙いが三つあった。第一、この交響曲を全然知らない人たちに、音楽ではこうして分析して批評したところで、ほとんど何一つはっきりしてこないことを示し、次に、通り一遍にしか知らない癖に、勝手がわからないため放り捨ててしまった人たちに、若干の重点を暗示し、最後に知ってはいるが、この曲の真価を認めたがらない人たちに、この曲はみたところ形式がないように見えるけれども、更に大きな標準ではかってみると、敢えて内面的な繋りにまでは触れなくても、立派に均整のとれた秩序の内在していることを教えたいと思ったのである」。この章以降の評論には、音楽理論の難しい話はほとんどない。

ベートーヴェンの遺作、「銅貨を亡くした憤慨」の紹介も面白い。ベートーヴェンの手稿には、「銅貨を亡くした憤慨の腹癒せに作ったカプリッチオ(狂想曲)」とあるふざけた曲なのだが、シューマンは言う、「芸術の蘇えりの日に、真理の守神が裁きの秤を手にとって、この銅貨狂想曲を片方の皿にのせ、近頃の悲愴な序曲を十も束にしてもう一方の皿にのせたら――序曲の方の皿は高々と天まではね上がるだろう。しかしいやしくも作曲家ならば、老若を問わず、このことから学ぶ必要があると思われることが一つある。それは一に自然、二に自然、三に自然!ということである」

シューベルトの墓参りの後、兄弟の家を訪ねて、ハ長調交響曲(いまでいうところの未完成)を発見するエピソード。超売れっ子だった、リストのコンサートにおける熱狂の様子と、リストの天才ぶり。

巨匠になる前のワーグナーのタンホイザーを聴いて、才能の片鱗を見出す様子。「確かに天才の筆の跡がある。もし彼に才気と同じくらい旋律があったら、今日を代表する人になっていよう」と。一方で、ワーグナがフィデリオを指揮した演奏には、「リヒャルト・ヴァグナーのまずい演奏。わけのわからないテンポの取り方」と、容赦ない。

そして、ブラームスの時代の到来を予測する。「今に時代の最高の表現を理想的に述べる使命をもった人(中略)が、忽然として、出現するだろう。また出現しなくてはならないはずだと。すると、果たして、彼はきた。嬰児の時から、優雅の女神と英雄に見守られてきた若者が。その名は、ヨハネス・ブラームスといって、(後略)」

評論で取り上げられる数々の作品を、現代の演奏家の録音で聴きながら、シューマンの評論を読む。この上なく、贅沢で楽しい時間が過ごせる。

評論のほかに、当時の演奏会の記録と短評もあり、これも面白いが、それにもまして、シューマンによる音楽の座右銘の章は、心に残る。ほんの少し抜粋すると:
・一番大切なことは、耳(聴音)をつくること、小さいときから、調性や音がわかるよう努力すること。
・ぽつんぽつんと気のないひき方をしないように。いつもいきいきとひき、曲を中途でやめないこと。
・やさしい曲を上手に、きれいに、ひくよう努力すること。
・楽器の助けをかりないで、譜面をみて歌えるようになること。
・大きくなったら、流行曲などひかないように。時間は貴重なものだ。今あるだけの良い曲を一通り知ろうと思っただけでも、百人分ぐらい生きなくてはならない。
・他の人々とあわせて二重奏や三重奏等をする機会があったら、決してのがさないように。人とあわせると、演奏が流暢に、達者になる。
・隠者のように、一日中とじこもって、機械的な勉強をしていてもだめだ。反対に活発な、多方面の音楽的な交際を結んだり、合唱やオーケストラにさかんに出入りしていると、音楽的になってくる。
等々

200年近くも前の、欧州の音楽文化に関する書物が、こんなに身近な感覚で読めるというのは、まことに不思議である。音楽の普遍性なのだと思う。

「マエストロ、それはムリですよ・・・」 松井 信幸 (著), 飯森 範親 (監修)2016年08月17日



☆☆★
飯森さん、コンサートの時のトークやツイッターが面白くて、気になっていた。

この本は、飯森さんが山形交響楽団の常任になってから、オケがどのように変わったか、ライターの松井さんが、関係者に取材してまとめたもの。

山形交響楽団(略して山響)は、定期演奏会に加えて、地元での音楽教育での活動を行い、オケとしてはとくに特徴もないが、運営が破綻することもなく、細々と活動を続けていた。2004年からの常任指揮者に飯森さんが就任すると、ドラッガーのマネジメントを実践するかのような変革を次々と行い、楽団員も活性化され、地方都市のオケが、日本全国の音楽ファンから一目置かれる存在に変わっていく。

山響の事務局長が、それまで数回客演に来ていた飯森さんに常任を依頼しに行った時のエピソードが面白い。当時から売れっ子で超多忙だった飯森さんに、引き受けてもらえるはずがないと思いながら、話を切り出すと、「やりましょう」と即答。驚く事務局長に、「何か問題がありますか?」と飯森さんが聞くと、「引き受けてもらえると思っていなかったので」と事務局長。これに飯森さんが怒る。「そんな、卑屈な姿勢だから山響はダメなんです」と。

音楽の中身以外において、飯森さんがどんな人か良くわかる本である。ツイッターに色々発信するのも、ファンへの情報発信、サービスの一環であろう。一度、山形に山響を聴きに行きたくなった。

飯森さんのインタビュー記事も入っている。高校時代に普通高校に通いながら、小澤征爾先生のいる桐朋学園を目指して受験勉強をした時代の話しが凄い。高校から4時半に帰宅して、夜10時過ぎまでピアノの練習、晩御飯を食べてから、和声学の勉強が11時から1時まで。指揮法の勉強が2時過ぎまで。朝は6時に起きてピアノでソルフェージュ、それからスコアリーディング。そんな暮らしを3年間続け、見事、桐朋学園指揮科に現役合格。外部の高校から指揮科に合格した人は、飯森さんしかいないらしい。大学時代も、随分ストイックに音楽を勉強されていて、遊んだ記憶がないそうだ。

音楽は才能で決まると思うのだが、才能ある人も、これだけ努力しているのですね。

「アマチュアオーケストラに乾杯!」 畑農敏哉著2016年08月16日



☆★
副題は、素顔の休日音楽家たち。

アマオケに憧れる私としては、その実態を少しでも知りたいと思い、興味深く読んだ。

著者の畑農さんの、本業はジャーナリスト。その傍ら、長くアマチュアオーケストラに参加し、遂には自分が発起人としてアマオケ「Project B オーケストラ」を立ち上げる。

本書では、日本のアマオケの事情を分析して、アマオケに興味はあるが、飛び込む勇気(というか、実力)のない、私のような読者に多くの情報を提供してくれる。

どんなタイプのオケがどのくらいの数あって、どのような問題を抱え、どんな曲を演奏しているのか。今の時代、ネットを使えば自分でも調べられることも多いのであるが、本としてまとめてもらうと便利ではある。

この本の内容には、ネットで調べるくらいでは、わからない情報ももちろん含まれている。楽器別に、奏者の特徴とか。 チェロの男性は、「お坊ちゃまタイプ」、とあっさり片づけられた。著者がコントラバス奏者なので、そちらについては随分詳しい。

アマオケでは慢性的に弦楽器奏者が不足しているらしいので、これは朗報(かな?)。コントラバス奏者は、あちこちの楽団のエキストラで週末は大忙しという、ドキュメンタリー記録も含まれている。

いつかアマオケに入りたいと考えている人には、多少の参考にはなる本かな。

「船に乗れ!」藤谷治 著2016年06月23日

ベルリンに向かう飛行機の中で、藤谷治「船に乗れ! 第3部 合奏協奏曲」を読んでいたら、ブランデンブルグ協奏曲5番の合奏のシーンで涙が止まらなくなる。

実は、第2部 の中頃までは、音楽シーンの描写は秀逸だが、小説としては村上春樹風の味付けをした、凡庸な学園恋愛物かな、という評価に傾いていた。それは、明らかに間違っていた(読者を泣かせる事が必ずしも小説の高評価につながる訳ではないが)。第2部の中頃から、主人公を乗せた船(人生)に押し寄せる波はその振幅をどんどんと増大させる。その波にゆられ、振り落とされそうになりながら、必死にしがみつく、その姿が、音楽活動を通して描かれる。後半になって、波が高くなるにつれ、穏やかだったころより、物語の虚構性が気にならなくなり、感情移入できる。優れたフィクションの特質なのだと思う。

この長編小説であるが、中年になった主人公が、音楽高校で過ごした三年間を振り返るという形で書かれている。音楽一家に育ちチェロを弾く主人公が挫折を繰り返しながら音楽に取り組む姿が、今、余りに遅く音楽演奏に取り組みだした自分と、レベルも背景も違うとはいえ、重なる所が多い。

彼ら音楽を学ぶ高校生に与えられる課題あるいは自ら選ぶ課題は、常に、彼らの今のレベルをはるかに超えている。初めのうちは、リズムも音程も滅茶滅茶、それが徐々に、あるいはある時突然、飛躍的に、変わる。そんな事を繰り返しながら、上達していく。変われる人は上に登り、変われない人は、残される。

ソロ演奏、ヴァイオリン、ピアノ、フルートなどとのアンサンブル、そしてオーケストラ、それらの練習風景、本番の演奏の最中に起こるドラマ、経験した人にしか書けない(経験があれば書けるものでも無いが)活き活きとした描写が堪能できる。

作者のインタビューを読むと、主人公が音楽一家に育ち音楽高校でチェロを専門としドイツに短期留学するというのは、作者自身の生い立ちそのものだそうである。しかも、第1部のエピソードは、家のあった場所を除き実話に近いと言う。それを読んで、小説の前半で私が感じていた嘘臭さの原因がわかった。高校生をありのままに描けば、小説より現実味が無いという事であろう。
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