アマリアの別荘 パスカル・キニャール (著), 高橋啓 (翻訳)2017年08月15日

☆☆☆☆☆

久しぶりに、自分の好みのど真ん中を貫いてくれる、心底面白いと思える小説に出会った。読みだしたら止まらないけど、読み終えるのがもったいないという感じ。何が面白いか、説明するのは難しい。

作品は、交響曲のようは4部構成で、各部で舞台となる場所や、文章のスタイルが変わる。主人公の女性アンは現代音楽の作曲家。どんな曲を作曲するのかというと、古典音楽を聴いて、そのエッセンスを抽出して作曲するという風変わりな仕事をしている。作曲家としての仕事の描写は、音楽をよく知っている人しか書けないなと思わせるものがあった。調べてみると、キニャール氏の著書には、「音楽への憎しみ」、「音楽のレッスン」など、音楽をテーマにした作品が結構ある。

さて、この小説の内容であるが、アンはある日長年連れ添ってきたパートナー(結婚はしていない)の浮気を発見。そこからの彼女の心の動きの描写が上手いし、とても大胆でカッコいい復讐の行動は、ワクワクさせてくれる。あちこちで意外な展開をみせるプロットの面白さ、個性的で魅力に溢れる登場人物、に加え、小説のスパイスとして欠かせない幻想性も適度に加えられている。

ここまで書いてみて、我ながら魅力の伝わらない感想文だと思う。でも、こんな小説があれば、生きているのも悪くないと思うことができる小説である。

叡智の断片 池澤 夏樹 (著)2017年08月15日

叡智の断片 (集英社文庫) 文庫  池澤 夏樹 (著)

☆☆☆☆

毎回、テーマを決めて、テーマに関係する著名人の言葉を引用辞典から選択して、エッセイ風の読み物にするという趣向の本。テーマは、「リッチマン、プアマン」、「科学者を信用しよう」、「死について」、「悪口は楽しい」、「老人たちよ」、「自殺の誘惑」、「ナウ・ユー・ハズ・ジャズ」等々、硬軟合わせて50編位ある。

作者は、池澤夏樹さん。彼の小説も良いが、エッセイもなかな楽しい。さすが、福永武彦氏のご子息という感想は失礼だろうか。

池澤さんによると、欧米では著名人の言葉を引用するというのは、意見を示す一つの手法として広く使われているらしい。確かに、ツィッターを見ていても、欧米人の呟きには、引用が多い。日本人は他人と違う意見は極力言わない人種なので引用も流行らない、というのが池澤さんの分析。

引用をピックアップして並べるだけなら誰でもできるが、テーマについて、どんな引用を選んで、どのように論旨を展開するかが著書の叡智の見せどころである。引用には、英語原文も補足として付けられているのがうれしい。

私が気に入った引用を「音楽の捧げ物」の章からひとつ:
Music is essentially useless, as life is.
George Santayana 1863-1952

ジーヴズの事件簿―才智縦横の巻 P.G. ウッドハウス2017年07月31日

☆☆☆☆★

20世紀初頭の英国の作家P.G. Wodehouse の短編小説ジーヴズシリーズの名作選。ロンドンを舞台に、天然ボケの不労所得階級の青年バーティの身の回りに持ち上がる様々な問題を、彼の執事ジーヴズが見事に解決していくユーモア小説。ジーヴズがバーティに仕えているようで、実は、意のままに操っているのが面白い。気楽に楽しめる短編で、何十冊もある宝の山の入り口を見つけたという感じ。

何でも知っているジーヴズはイギリスはもとより全世界で人気のキャラクターで、今でも人気があるようだ。

ask.com という今はマイナーな検索サイトがあるが、以前は、Ask Jeeves という名前の英国の会社だったらしい。買収されて名前が変わった。

ところで、イギリスの執事というと、カズオ・イシグロの「日の名残り」の主人公スティーブンスが真っ先に頭に浮かぶ。こちらは、滅私奉公を続けてきたスティーブンスが、休暇をもらい旅行をしながら人生を振り返る物語。

同じ執事というものの、ジーブズ君とはずいぶん違う。調べてみると、スティーブンスはbutler であり、雇用者の家に仕える。いわば、貴族の館のマネジャーである。一方、ジーブズ君は、雇用者個人に仕える valet 従僕である。やはり、butler のほうが格が上なのだろう、パーティはジーブズを「必要とあればとても有能な執事になれる」と評しているようだ。

浅学な私は、いままでジーブズもウッドハウスも知らなかったのだが、読んで見ようと思ったきっかけは、チェリストのイッサーリス氏がツイッターで、時々、PG Wodehouse の小説からの引用を投稿するのを読んで、興味をもったことである。彼の引用は、どこが引用するほど面白いのか、今一つわからなくて、それが却って興味を引いた。日本人が面白いと思う感覚を外国人に伝えるのが難しいのと同じことなのだろう。

イッサーリス氏のツイッターでは、例えば、こんな引用がされていた。()内は拙訳。

'I spent the afternoon musing on Life. If you come to think of it, what a queer thing Life is! So unlike anything else, don't you know.'
PGW
(午後を人生について思いを巡らして過ごした。考えてみると、人生ってなんて変なものなんだろう! 他の何とも似ていない。そう思わない?)

“She uttered a sound rather like an elephant taking its foot out of a mud hole in a Burmese teak forest.”
― P.G. Wodehouse
(彼女は、像がビルマのチークの森の泥の穴から足を引き抜いた時のような音を発した。)

He looked like something stuffed by a taxidermist who had learned his job from a correspondence course & had only got as far as lesson 3
PGW
(彼は、通信教育で第3教程まで剥製作りを習った剥製師が詰め物をした剥製のようにみえた。)

“It was one of those still evenings you get in the summer, when you can hear a snail clear its throat a mile away.”
― P.G. Wodehouse
(それは、カタツムリが一マイル先で咳ばらいするのが聞こえるほど静かな、あの夏の夜の一晩であった。)

牧逸馬の世界怪奇実話 (光文社文庫)2017年07月02日

牧逸馬(まき いつま)は、長谷川 海太郎という、1920、30年代に大活躍した作家のペンネーム。この人、またの名を林不忘(はやし ふぼう)と言い、「丹下左膳」シリーズの著書。さらに旅行記を書くときは、谷譲次を名のった。

1900年に佐渡に生まれ、函館で育つ。学生時代から英語が堪能、文学青年でありながら、応援団長で喧嘩に明け暮れるという、破天荒な学生だった。1920年に日本を飛び出し、1924年まで米国を放浪。帰国して、流行作家になる。1928年から、1年3ヵ月の間、欧米を旅し、怪奇事件を扱った書物を買い占めて調査。その時の成果が、本書「世界怪奇実話」になった。

1935年に短い生涯を閉じるまでに、三つのペンネームを駆使し、それぞれに大流行作家となり、売り上げで御殿を築いたそうだ。昭和の初めにこんな面白い作家がいたとは、いままで全く知らなかった。

この世界怪奇実話、欧米で世間を騒がせた、世にも恐ろしい、あるいは奇妙な事件について、著者が欧州で買い集めた様々な記録を紐解いて、様々な視点から事件を描写したものである。収められている事件は、
「切り裂きジャック 女体を料理する男」
「ハノーヴァーの人肉売り事件 肉屋に化けた人鬼」
「マリー・セレスト号事件 海妖」
「タイタニック号沈没 運命のSOS」
「マタ・ハリ 戦雲を駆る女怪」
「テネシー州、猿裁判 白日の幽霊」
「ローモン街の自殺ホテル」
「双面獣」
「クリッペン事件 血の三角形」
「ウンベルト夫人の財産」
「女王蜘蛛」
「ドクター・ノースカット事件 土から手が」
「ブタペストの大量女殺し 生きている戦死者」
「浴槽の花嫁」
の 14編。

タイタニック号やマタ・ハリの名は、いまでこそ、日本でもあまりに有名であるが、当時、ほとんど知る人もいなかったらしい。他の事件は猶更である。

この本を読んで、驚くのは、まず、その語り口が、現在の週刊誌に載せても可笑しくないほど、現代的あること。次に、欧米の文化風俗の描写の自然さ。当時の日本の一般大衆は外国人や外国文化との接点は極めて限定されていた筈で、外国の文化とは、モノクロの無声映画を通して覗き見るようなものだったのではないだろうか。気軽に海外に出かける現代人とは違うのである。それを、牧逸馬は、気取りも無く、隣町での出来事のように自然に、生き生きと描写している。

本書で扱われた事件は、血なまぐさいものが多いのだが、それらと一線を画しているのが、「テネシー州、猿裁判 白日の幽霊」である。これは、テネシー州の反進化論法に違反した疑義で告訴された教師の裁判という形で行われた、反進化論法に関する争いの話である。

その軽妙な語り口を少し引用してみる:

『スコープス君に相談すると、対「反進化論法」の実験用として、法廷に立つことを辞さないという。つぎは、軍資金の問題。が、これは「アメリカ自由市民ユニオン」- American Civil Liberties Union - なる団体が、被告の裁判費用をひき受けることになったので、そこで、馴れあいである。だれかが告訴しなければ事件にならないから、ラブリー博士がスコープス君をおそれながらと訴えでた。
「あの者は、不届きしごくにも御禁制の進化論を教えておりますようでー」
そいつは大変と内偵してみると、なるほどスコープス君は涼しい顔で、さかんに教場で進化論入門みたいなことを弁じたてている。もってのほかとあって、逮捕尋問におよぶと、待ってましたとばかり、
「進化論を教えるのがなぜいけない。よし!裁判にかけてもらおう」
と呆れかえったずうずうしい返事だ。
予審裁判官によって起訴された。
テネシー州 The State of Tennessee 対ジョン・タマス・スコープス John Thomas Scopes の公判。
罪名は、「教えちゃいけないってのに進化論を教えた罪」』

これに続いて、陪審員に選ばれた農家のおじさんのすっ呆けた答弁や、反動政治家の大本山ウィリアム・ジェニングス・ブライアンと、ニューヨークの有名弁護士クレアランス・ダローの一騎打ちの論戦が、面白おかしく描写される。まことに、当時のアメリカの世相が生々しく感じられる文章である。

タイタニックにしろ、マタ・ハリにしろ、いまではよく知られた事件ではあるが、私自身は、何となく映画をみたり、話を聞いたことがある程度の知識しかない。なので、事件の詳細は、この本で初めて知ったことばかりである。牧逸馬の文章で読むと、単に事件の記録を知るだけでなく、同時代の事件として語られているため、当時の人がどのような驚きで事件を受けとめたのかまで伝わってくる。日本の当時の読者に与えた驚きも大きかっただろうと思う。

紹介された事件の怪奇さも衝撃だが、長谷川 海太郎という人物の存在を知ったことが、嬉しい衝撃であった。これから、この人の残した沢山の本を読むのが楽しみである。

小説家の休暇 三島由紀夫2017年05月09日



☆☆☆☆

三島由紀夫の作品を読むのは何十年ぶりだろう。「金閣寺」、「潮騒」、くらいは読んだが、あまり波長の合わない人なので、それ以上、特に読みたいと思ったこともなく年月が過ぎた。過日、岡田 暁生さんの「音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉」を読んでいて、三島のこの本の内容に触れたところがあり、興味を持った。

この本は、「小説家の休暇」という日記風の読み物に、文学、演劇、美術などに関するエッセイを加えた文庫本である。

岡田さんがこの本に言及したのは、三島が音楽に対する警戒感を表しているくだりである。「小説家の休暇」のなかで、三島曰く、 「理知と官能との渾然たる境地にあって、音楽を楽しむ人は、私にはうらやましく思われる。音楽会へ行っても、私はほとんど音楽を享楽することができない。意味内容のないことの不安に耐えられないのだ。」 この気持ちは、よくわかる。三島ほど物事を突き詰めて考えない私は、音楽が楽しいことの根幹には、意味内容があり、それを自分はわかっているようなふりをして、自分をごまかして済ませているのだと思う。だから、ポピュラー音楽ではなく、少し高尚に見えて自分を納得させられるクラシック音楽を愛しているのだろう。さらに、三島は言う、「音楽に対する私の要請は、官能的な豚に私をしてくれ、ということに尽きる。だから私は食事の喧騒のあいだを流れる浅はかな音楽や、尻振り踊りを伴奏する中南米の音楽をしか愛さないのである。」

 ところで、三島には、「音楽」というタイトルの小説があるのだが、音楽とどうかかわる小説なのだろう。読んで見たいと思う。

音楽に対するこのような態度も含め、このエッセイ集からは、三島という人物の自分を胡麻化さない真摯さがよくわかる。実は、この本、私には難しすぎて、かれの芸術論の30%も理解できていない。凄く、濃度の高い、知的な本である。三島がこれほど博学な人であったとは知らなかった。それでも、彼の芸術に対する思いの真剣さだけは痛いほどわかる本であった。

エッセイ集の最後の、「日本文学小史」は、古事記、万葉集、古今和歌集、懐風藻、と論じ、源氏物語の途中で、彼の死により終わっている。 芸術と政治の関係性にも、文学史を通して鋭い考察が行われ、「懐風藻」の大津皇子の歌から読み取られる感慨を、「ひとたび、叛心を抱いた者の胸を吹き抜ける風のものさびしさは、千三百年後の今日のわれわれの胸にも直ちに通うのだ。この凄涼たる風がひとたび胸中に起こった以上、人は最終的実行を以てしか、ついにこれを癒やす術を知らぬ」、と記している。これがどれだけ彼の魂からの思いであったのかは、三島事件で明らかになった。

ちなみに、大津皇子の辞世の句「ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」は、ショスタコーヴィチの歌曲「6つのロマンス」(あるいは、「日本の詩人の詩による6つの歌曲」)の中の第2曲「自害の前の歌」の歌詞になっている。とても悲しい歌曲である。22歳のショスタコーヴィチがどうしてこんなに悲しい歌をと思う。100年も前に、ロシアで日本の奈良時代の歌が知られていたというのも驚き。

利己的な遺伝子2017年04月09日



利己的な遺伝子 <増補新装版>、リチャード・ドーキンス (著), 日高 敏隆 (翻訳), 岸 由二 (翻訳), 羽田 節子 (翻訳), 垂水 雄二 (翻訳)

☆☆☆☆☆

仕事でこれまで特に興味を持たなかった遺伝子に多少関わることになりそうなので、少し勉強しようと読んでみた。仕事に役にたつような本では全くなかったのだが、こんな面白い理論をなぜ今まで勉強しなかったのかと後悔するほど衝撃的であった。

遺伝子は複製される単位であり、同じ遺伝子が増殖するように進化する。生物は、遺伝子を保護し、その増殖を行うためにプログラムされたロボットである。すべてはこの原理から始まる。これが「利己的な遺伝子」の意味である。遺伝子が増殖するように進化するというのは、逆説的であり、増殖した遺伝子が淘汰に残ることを視点を変えただけである。

その利己的な遺伝子という原理に基づくと、生物は、ESS (Evolutionarily Stable Strategy、進化的に安定な戦略)を取るように進化することになる。ESSの典型的な例を示す。ハト派は戦わない、タカ派は際限なく戦いを挑むと仮定する。戦うと勝てば報酬は大きいが負けると代償が大きい。戦いは集団全体では必ず不利益になる。ハト派ばかりであれば皆、そこそこハッピーである。ところがハト派ばかりの集団に、タカ派が混入すると戦いを挑めばハト派の相手は逃げるので易々と戦利品を得られる。そして、タカ派は徐々にその数を増やす。タカ派が一定以上の数になると、戦う相手がタカ派である確率が増え、戦いによるロスが増える。戦わずに逃げるハト派が有利になる。そういうわけで、タカ派とハト派の割合の安定的な比率が決まる。ハト派ばかりの集団というのはESSではないのである。だから、生物進化の原理だけに頼るかぎり、平和な世界は実現不可能なのである。

ところで、多くの生物の行動や生態には往々にして利他的と判断されるものがある。人間であれば、人助けであるが、人間に限らず、仲間を助ける行動の例には枚挙にいとまがない。極端な話、子育ても利他的行動である。これは自分の遺伝子の増殖のためと考えれば簡単に説明できる。しかし、仲間の頭からダニを取ってやる鳥や、巨大魚の歯を掃除する小型魚など、様々な利他的行動がある。これらも遺伝子にとっては利己的行動であることが説明できる。その前提は、ゲームがゼロサムゲームではないことと、繰り返されることが解っていることである。ゲームが最終回であることが解っていれば、ダニを取ってもらった鳥は、恩返しをしないほうが得だし、歯を掃除してもらった後でその小魚を食べてしまったほうが得なのだ。しかし、そのゲームが永く(世代を超えて)繰り返されるのであれば、相手をだますことによる自分への不利益が時を経て顕在化するのである。

このような遺伝子の利己性をベースに生物進化を説明する理論は極めて強力なツールであるが、地球上の生物における遺伝子は、自己複製子の一例であり、それがDNAでなくても、自己複製を行う単位であれば、生物進化と同様な現象が生れるはずだ。宇宙のどこかに別の自己複製子をベースにした異種の生命が存在しても不思議ではない。

ところで、今、地球上にも遺伝子ではない自己複製子が誕生したように思われる。それは人間の文化である。ドーキンスはそれに、Meme(ミーム)という名前を付けている。これは文化伝達の単位、あるいは模倣の単位としている。模倣という増殖手段により人間の文化は遺伝的進化より桁違いに速い速度で増殖し、淘汰され進化している。著者も指摘していることだが、この理論の美しいところは、文化的進化で問題にしているのは、ミーム自体の生存であり、単にそれ自体にとって有利であるということで進化することであろう。文化を創造した人は死んでも、文化時代は不滅なのだ。

この本の理論をベースに、人間社会を見直すと、際限なく面白い考察ができる。(ただし、遺伝子の利己性の理論を人間の道徳観の考察に使うことは著者が警鐘を鳴らしていることである)

「読んでいない本について堂々と語る方法」 ピエール バイヤール (著), 大浦 康介 (翻訳)2017年02月25日



☆☆☆☆☆

フランスの大学教授で、作家である ピール バイヤール(Pierre Bayard) 氏の本である。実用書のようなタイトルで、実用書的な枠組みで書かれてはいるのだが、これは、本格的な読書論だ。方法論としての記述は、著者の悪戯で、大真面目を装って書いているのが面白い。

だいたい、この本、古今東西の様々な本(漱石の「吾輩は猫である」も含まれている)から、”読まれていない本について論じられている場面”の例を沢山集めているのだが、そのことだけを見ても、著者の ピール バイヤール氏がどれほどの読書家であるかがわかる。

彼によると、大学の文学部の研究者で、例えば、プルーストの『失われた時を求めて』を読んでいない人は沢山いるし、シェイクスピアの『ハムレット』ですら、読んでいないかもしれない。それでも、職業上、読んでないとは言えず、この本のテーマは、彼らにとっては、極めて重大なものなのだ。

この本の要点は、大胆にまとめてしまうと以下のようになる。 本というものは、物理的な存在であるようで、そうではなく、人々の共通認識である、あるいは個々の人の固有の意識の中に形成され、位置づけられた、抽象概念である。ひとつの本は、物理的な本をインスタンスとして、評論や感想や広告や噂話、売れ行きや、著者の人物像など、それを取り巻く様々な付随情報で形成されたオブジェクトクラスなのだ。「本を読む」というのは、常識的には、本に記載されている文章を読んだということであるが、実際には、本を読んだと言っても、読み方は多種多様であり、以前読んだ本について、どれだけの記憶が残っているのか。実は、新聞広告の内容ほどしか覚えていないこともあるだろし、それすら怪しいこともある。そんな程度なのだから、本を読んでないことに引け目を感じる必要はない。本について語るなんてことは、その本の属するオブジェクトクラスについて、何らかの情報があれば、適当にできるものだ。

この本に引用されている、漱石の「吾輩は猫である」の「迷亭」氏が、アンドレア・デル・サルトの理論とか、ギボンの仏国革命史やら、ハリソンのセオファーノだとかの話をするくだりは、どれも読んでない本について、適当なことを喋り、相手が感心する様子が描かれる。実は読んでいないことを知った相手は、そのような「迷亭」氏のいい加減さに呆れて、もし相手が読んでいて、内容が違うと言われた場合は、どうするのかと問い詰めると、「迷亭」氏は、違う本と間違えたといえばよいと、ひらき直る。これぞ、バイヤール氏の戦略そのものである。私も実は「吾輩は猫である」を通読したことはないのだが、これで「吾輩は猫である」を、自信をもって語れそうだ。

さて、この本の一番大切な(教育的な)メッセージは、読んだ本を自分の図書館のなかで、特徴ある書として位置づけるために、能動的な読み方をしようということだと思う。本のテーマについて自分なりの結論を作るとか、小説の別の展開を考えてみるとか。物理的な本は一つしかないが、それを題材に生まれる抽象的な本というクラスには、様々な位置付けが可能である。

(最近、ちくま学芸文庫としても出版されています。)

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉、 岡田 暁生(著)2017年01月20日



☆☆☆☆★

自分にとって楽しめる音楽と楽しめないものがあるのは何故だろう。人が感動したと言っているものが解らなくて悔しいと思うことがよくある。特に、それを語る人が、人間的に共感できる人である場合はなおさらである。それは、単に、感性の違いのようなものなのか、であれば、感性の違いはどこからくるのだろうか。感性が違うといっても、それは、質的な違いなのか、あるいは、量的な違いなのだろうか。感性を磨く、という言葉あるように、感じ取ることが出来ないのは、感度が不足しているということなのだろうか。

そういう、疑問に対して、私が始めたのは、能動的に音楽をしてみるということであった。遅まきながら、還暦を目前にチェロの練習を初めてみた。ただし、こちらの進捗は遅々としていて、演奏することで音楽に対する感性がどう変化するかの答えは中々出そうにはない。音楽が細部まで聞こえるようにはなってきたが。

そんな疑問の答えを探したくて手にした本が、岡田 暁生さんの「音楽の聴き方」。岡田さんの著作は、以前、西洋音楽史―「クラシック」の黄昏、 を読んで、明解で面白い語り口に関心した。この本からも、岡田さんの明晰な論理で、多くの示唆をもらうことができた。

●相性
ある音楽に共感するかどうかは、聴く人のうち形成されている価値観による。この価値観は、必ずしも個人的なものではなく、時代や集団により刷り込まれて形成された部分が多い。だから、時代ごとに、国により、あるいは社会階級により、異なる音楽が好まれるのである。だが、著者は言う、『とはいえ、音楽に対する反応がすべて「相性」のみに還元されてしまうのだとすれば、それではいかにも寂しい。』 しかし、『相性だの嗜好だの集団的な価値観の違いだのといったことを突き抜けた、... 超越的な体験』も、確かにある。それは、『ひょっとすると「未知なるものとの遭遇」であるのかもしれない』

●音楽を「する」/「聴く」/「語る」の分裂
18世紀までの音楽作品には、アマチュアが弾いて楽しむためのものが沢山あった。19世紀に入るとともに、音楽は専門化し、演奏するもの、批評するもの、聴くもの(一般聴衆)に分裂する。やがて、ラジオ、レコートの普及にともない、感動エピソードを売り物にする、巨大な音楽市場が生れる。そのような現状を、著者は、パブロフの犬になぞらえ、危惧する。ヒーリングミュージックの類の考えなくていい音楽、その究極は、どんな「感動」も思うままに電気刺激で再生が可能になる未来である。

●「音楽は国境を超える」
本書で、音楽が世界共通、というのが、如何に稚拙な主張であるかが、議論される。ある音楽に共感するには、共通の文法、文化の前提が必要であり、そもそもわからない音楽というのは、あり得るのだ。クラシック音楽に限っても、その解釈、演奏スタイルは、時代とともに変容している。作曲された当時と、現代の演奏とはずいぶん違うのであろう。音楽作品には、その時代やそれを聴き続けた人々の集団的記憶が積み重なっている。そういう作品の歴史を踏まえて輝かそうとするのがフルトヴェングラーの指揮であった。対照的に、トスカニーニは譜面がすべてであるとして、そういう歴史的背景、意味を捨象した。具体的な演奏では、例えばポリーニのショパンのあるフレーズのリズムの特異性を指摘して、こういう演奏の解釈の仕方(の可能性)を論じている。この本では、実例が沢山挙げられているので、実際に、演奏を確認しながら読むのが面白い。

●音楽は文脈と不可分
著者の主張は、以下の言葉に凝縮されている。「音楽は必ず文脈の中で鳴り響き、私たちは文脈の中でそれを聴く。歴史/文化とは音楽作品を包み込み、その中で音楽が振動するところの、空気のようなものなのである。」、「今の時代にあって何より大切なのは、自分が一体どの歴史/文化の文脈に接続しながら聴いているのかをはっきり自覚すること、そして絶えずそれとは別の文脈で聴く可能性を意識してみることだ」 まさしく、村上春樹の著書「意味がなければスイングはない」と同じ主張である。

●聞き上手へのマニュアル
本書の最後に、聴き上手へのマニュアルとして、著者のアドバイスがリスト化されている。これも、うなづけるところが多い。例えば、『「誰がどう言おうと、自分がそのときそう感じた」―これこそがすべての出発点だ』、『「理屈抜きの」体験に出会うこと』、同感である。ところで、『世評には注意』と、『多くの音楽は「語り部」のよしあしにより、面白く聴こえたり、退屈になってしまったりする』という、一見背反する意見も、音楽は文脈と不可分という側面を表すものだろう。世評という文脈の中で面白く聴ければそれもありだ。

ねむり姫―澁澤龍彦コレクション 澁澤 龍彦 (著)2016年12月08日


☆☆☆☆☆

澁澤龍彦の作品を読むのは初めて。

この作品集には、平安から江戸時代にかけての日本を舞台にした、幻想的な短編小説が6編収められている。

エピグラフに「オルタンスをさがせ、アルチュール・ランボー」と記された、「ねむり姫」は、14歳にして突然、眠りに陥り、その若さのまま何十年も眠り続けた平安時代の貴族の娘と、破天荒な人生を送った腹違いの兄との不思議な繋がりを描いた作品。エンディングが美しい。

一番、気に入った作品は、「ぼろんじ」。浅草観音詣でに出かけた令嬢、お馨は、酔客に絡まれたところを救ってもらい、名も聞かず別れてしまった青年、智雄、に恋し、思い焦がれる。ある日、観世音菩薩のお告げに導かれて、男装して思いの人を探す旅に出る。そのようなお馨の思いを露知らず、戊辰戦争の混乱を避け、女装して旅に出る智雄。二人は、運命の糸に導かれ、再開を果たすのだが、物理的な再開ではなく、言ってみれば、魂の触れ合いとでも言える、独特な現象が創作されている。

「夢ちがえ」は、産まれてからずっと、耳が聞こえぬがために望楼に幽閉され、矢狭間からのぞく景色が唯一の外の世界であった地方豪族の娘、万奈子姫の話。ある日、矢狭間から城の中庭で曲舞いを舞う武家、小五郎、を見て恋に陥る。その思いはやがて、小五郎の夢を吸い込み、夜な夜な彼の夢の中には老女の面を被った女が現れる。その夢の正体を知り、小五郎の夢を取り戻そうとした、小五郎の情婦の企てで、物語が展開する。

澁澤龍彦は、何となくいままで読まずにいた作家であったが、ファンタジックな魅力に溢れた軽妙なストーリーを精緻な文章て展開する素晴らしい作品に出合えた。今年、大いに売れたアニメ映画「君の名は」にも通ずる物語の面白さが発見できる。

「問題は英国ではない、EUなのだ 21世紀の新・国家論 」 エマニュエル・トッド (著), 堀茂樹 (翻訳)2016年11月27日




☆☆☆☆☆

英国のEU離脱、トランプ氏の大統領選勝利と、予想を覆す出来事が続き、何か潮流が変わっているとは感じていたが、不可解で、気持ちが悪い状態が続いていた。そんなときに、この本を読んで、視界が良好になった。

著者のトッド氏は、フランスの人類学者(?)。人類学という視点から、世界の国々の文化、思想、政治、経済を分析し、その多様性への地理的影響を明らかにしてきた。国際的な現代の問題に関して多くの本を上梓し、その中に記された数々の予言、「ソ連崩壊」「リーマン・ショック」「アラブの春」「EU離脱」が、現実になったとして、話題になっている。

この本が出版されたのは、2016年9月であるが、トランプ氏が大統領選で支持される理由を明確に説明している。

すなわち、ナショナルの方向への揺れ戻しの動きであり、それは、アングロサクソンの二つの大きな社会が、歯止めなき個人主義をプロモーションした果てに、ネオリベラリズム的であることに自ら耐えられなくなっているからだ、と論じる。二つの大きな社会とは、もちろん、英国と米国である。そして、この流れは、この二国にとどまらず、グローバリゼーションに抗して、自らを再建する、分散・不一致という現象として、多くの先進国に見られる。

グローバリゼーションを推し進めるエリート層は、理想を追い求め、そのしわ寄せが一般大衆にのしかかる。そういう構図からトランプ大統領が生れたと言えるだろう。

この本を読むと、そういう時代の流れが決して悪いものではなく、人類文化の持つ、自己治癒力的な側面の現れだろうというように思え、楽観的なビジョンを持つことができる。著者は、もともと、家族人類学という聞きなれない切り口を使う研究家で、それぞれの民族の家族システムの在り方と、その民族の文化、思想との関係を研究している。そういう意味で、社会現象は、ドラマではなく、科学的現象として分析される。その分析が予測している次なる状況は、今後20年のEUの崩壊、イランの国家としての安定、ドイツの難民政策の破綻、悲観的シナリオしか考えられない中国、などである。

示唆に富む本である。敢えて強く印象に残る一文をピックアップしておく。 「責任感のない世界のエリートたちは、国境の開放をヒステリックに実行している。そして、宗教的危機によって精神的空白が生まれ、従来の宗教に代わる価値としてお金や株価を追いかける空虚な文化がはびこる」

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