小説家の休暇 三島由紀夫2017年05月09日



☆☆☆☆

三島由紀夫の作品を読むのは何十年ぶりだろう。「金閣寺」、「潮騒」、くらいは読んだが、あまり波長の合わない人なので、それ以上、特に読みたいと思ったこともなく年月が過ぎた。過日、岡田 暁生さんの「音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉」を読んでいて、三島のこの本の内容に触れたところがあり、興味を持った。

この本は、「小説家の休暇」という日記風の読み物に、文学、演劇、美術などに関するエッセイを加えた文庫本である。

岡田さんがこの本に言及したのは、三島が音楽に対する警戒感を表しているくだりである。「小説家の休暇」のなかで、三島曰く、 「理知と官能との渾然たる境地にあって、音楽を楽しむ人は、私にはうらやましく思われる。音楽会へ行っても、私はほとんど音楽を享楽することができない。意味内容のないことの不安に耐えられないのだ。」 この気持ちは、よくわかる。三島ほど物事を突き詰めて考えない私は、音楽が楽しいことの根幹には、意味内容があり、それを自分はわかっているようなふりをして、自分をごまかして済ませているのだと思う。だから、ポピュラー音楽ではなく、少し高尚に見えて自分を納得させられるクラシック音楽を愛しているのだろう。さらに、三島は言う、「音楽に対する私の要請は、官能的な豚に私をしてくれ、ということに尽きる。だから私は食事の喧騒のあいだを流れる浅はかな音楽や、尻振り踊りを伴奏する中南米の音楽をしか愛さないのである。」

 ところで、三島には、「音楽」というタイトルの小説があるのだが、音楽とどうかかわる小説なのだろう。読んで見たいと思う。

音楽に対するこのような態度も含め、このエッセイ集からは、三島という人物の自分を胡麻化さない真摯さがよくわかる。実は、この本、私には難しすぎて、かれの芸術論の30%も理解できていない。凄く、濃度の高い、知的な本である。三島がこれほど博学な人であったとは知らなかった。それでも、彼の芸術に対する思いの真剣さだけは痛いほどわかる本であった。

エッセイ集の最後の、「日本文学小史」は、古事記、万葉集、古今和歌集、懐風藻、と論じ、源氏物語の途中で、彼の死により終わっている。 芸術と政治の関係性にも、文学史を通して鋭い考察が行われ、「懐風藻」の大津皇子の歌から読み取られる感慨を、「ひとたび、叛心を抱いた者の胸を吹き抜ける風のものさびしさは、千三百年後の今日のわれわれの胸にも直ちに通うのだ。この凄涼たる風がひとたび胸中に起こった以上、人は最終的実行を以てしか、ついにこれを癒やす術を知らぬ」、と記している。これがどれだけ彼の魂からの思いであったのかは、三島事件で明らかになった。

ちなみに、大津皇子の辞世の句「ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」は、ショスタコーヴィチの歌曲「6つのロマンス」(あるいは、「日本の詩人の詩による6つの歌曲」)の中の第2曲「自害の前の歌」の歌詞になっている。とても悲しい歌曲である。22歳のショスタコーヴィチがどうしてこんなに悲しい歌をと思う。100年も前に、ロシアで日本の奈良時代の歌が知られていたというのも驚き。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://burnet.asablo.jp/blog/2017/03/25/8420342/tb

アクセスカウンター