チェロレッスン 61回目2017年02月05日

今年もすでに1ヵ月経過。時間感覚は、生きた年月が分母になると誰かが言ってたけど、実感する。

昨日はチェロのレッスンの61回目だった。依然、長時練習すると肩甲骨付近が痛くなるので、欲張らず範囲を絞って練習して行った。

WernerはBook3の最初のページが終了。Lee のNo.2 も、「少し怪しいところありますが、いいでしょう」と、OKが出た。でも、帰宅してから録音を聴くと、アマチュアチェリストで、沢山の演奏をYoutube にアップしてくれているTomoyan の演奏(下にリンクした)と比べて余りの差に愕然とする。Feuillard は、No.36 Sicilian を先生と楽しくデュエットして終了。



Vivaldi のソナタ RV 47は、ハーノイの演奏を聴いて第1楽章をゆったりと弾く練習をしていったのだが、まだ早過ぎ、とくに3連符で早くなるようだ。音が途切れないように、雄大な音楽になるように。第2楽章は、何とか躓かずに通せた。次回までに3楽章も見る予定。

4月末のチェロ教室発表会の仮プログラムをいただく。参加2回目の今回、出番は、
●弦楽アンサンブル
J. Stamitz: Sinfonia in G major, WolS III.QS-3
●チェロアンサンブル
J. Haydn: Divertimento in D major
●独奏
A. Vivaldi: Cello Sonata in B-flat major, RV 47
●大合奏
G. Bezit: 「カルメン」第1組曲 闘牛士の歌

と、4回もあって、楽しめそうだ。

「蜜蜂と遠雷」 恩田陸 (著)2017年02月05日



☆☆☆

直木賞受賞作ということで、話題になっていたので、読んでみた。ピアノコンクールを舞台に、天才少年、少女が活躍する音楽小説ということで、評判や紹介記事から期待した内容通り、という読後感である。コンビニのスイーツのように、最大公約数に受ける内容を厳選した、毒にも薬にもならないが、楽しく読める娯楽小説である。

努力しなくても、お金を使わなくても、音楽がわかったような、楽しめたような、そんな幻想を抱かせてくれる本だと思う。コミックでは、「のだめカンタービレ」、「ピアノの森」、「4月は君の嘘」、などが同じジャンルにあるが、コミックのほうが、まだ、展開の意外性や冗談性に意義がある。

この本は、クラシック音楽を目指す若者に纏わる、あらゆるステレオタイプを集めて、てんこ盛りにした感じで、嘘っぽさが目立つ。演奏の描写毎に出てくる聴衆の反応、「熱狂的な拍手が沸き起こった」、「嵐のような拍手が湧き起こった」、「万雷の拍手が彼を包む」、が何十回と繰り返される。なんか、映画やドラマのコンサート風景で、観客役のエキストラが総立ちで拍手しているような白々しさを感じてしまう。

そんな意地悪な読み方をしているが、面白く無いわけではない。ただし、登場人物を介して語られる作者の音楽解説の比重が大きく、かなり鬱陶しい。そこに興味を持てる人は別だが、そうでなければ、「読んでいない本について堂々と語る方法」(ピエール・バイヤール)の恰好の題材になれる本だと思う。

チェロレッスン 62回目2017年02月22日

先の土曜日が62回目のレッスンだった。

音階、Werner、Lee と、さっとみていただき、残りの時間は、2か月後の発表会に向けて Vivaldi のソナタ RV 47 に充てる。 

前回のレッスンまでは、International Music Company版 の楽譜で練習していたのだが、ハーノイの演奏が気にいったとお話ししたところ、それなら Edition Peters 版がいいですね、ということで、今回は楽譜を変えて練習して来た。

臨時記号や反復、装飾音符の違いもあるが、一番重要な違いは、スラーの付け方だろうか。写真は、1楽章の4小節目と5小節目(上がInternational、下がPeters) であるが、スラーの付け方がEdition Peters版が長いので、ゆったりした感じが出しやすい。

第2楽章は一転してAllegro、軽快に弾きたいのだが、こちらはボーイングがぎこちない。第3楽章は、今回初めてみていただく。まだ、重音のポジション取りにもたつく。最後に4楽章のフィンガリングを教えていただく。Vivaldi のソナタは、いつも、Largo-Allegro-Largo-Allegro の構成だが、この曲の第4楽章は、特に軽快で陽気で気に入っている。曲想にあった弾き方ができるようになれば楽しいだろうと思う。

大阪フィルハーモニー 第505回定期演奏会2017年02月24日

もう一週間経ってしまったが、2月17日の大フィルの定期を聴いた。大きすぎるフェスティバルホールが好きではないので、あまり行ってなかったが、井上道義さんの大フィルとの契約が3月で終わるということで、聴ける時に聴いておこうと出かけた。

プログラムは、井上さんの大好きなショスタコーヴィチから、11番と12番である。私はショスタコーヴィチにはあまり馴染みがなく、ライブで聴いたことがあるのは、記憶しているかぎり、5番と13番「バビ・ヤール」だけだ。前者は2008年にクリストフ・エッシェンバッハ指揮フィラデルフィア管弦楽団で、後者は昨年ヤニック・ネゼ=セガン指揮のベルリンフィルの演奏を聴いて、感銘を受けた。

(訂正: 去年、 テミルカーノフ指揮、サンクトペテルブルグ・フィルハーモニー交響楽団の7番 沼尻 竜典指揮、京都市交響楽団の4番 も聞いている。何という忘却力!)

今回の11番と12番は、録音でさえ聞いたことがなく、敢えて予習もせずに行ったのだが、衝撃的な演奏だった。ショスタコーヴィチの音楽って、リズムのインパクトが強烈だが、井上さんのリズム感が冴えわたり、オーケストラも緊張感のある演奏で応えて、曲の魅力を引き出していた。素晴らしい演奏だったと思う。それぞれ40分くらいの曲だと思うのだが、とても短く感じた。

今年は、ショスタコーヴィチにはまってみようかと思う。


2017年2月17日(金)
大阪フィルハーモニー交響楽団 第505回定期演奏会 :
フェスティバルホール
指揮:井上道義
<曲目>
ショスタコーヴィチ/交響曲第11番 ト短調 「1905年」作品103
ショスタコーヴィチ/交響曲第12番 ニ短調 「1917年」作品112

最小編成で展開する壮大な音楽世界2017年02月24日

Great Works by the Smallest Configuration

欧州で活躍するロータス・カルテットの第1ヴァイオリンの小林幸子さん、チェロの齋藤千尋さんによる演奏会に行った。タイトルに惹かれて行ってきたが、看板に偽りなく、ヴァイオリンとチェロの二人が、大阪倶楽部の小さなホールに集まった100人足らずの聴衆を前に、18世紀から20世紀にわたる、ヘンデル、プレイエル、マルティヌーという3人の作曲家の音楽世界を見事に演出した。たった二人で、時空を超えた別世界に聴衆を引きこむ音楽の力に感動する。

プレイエルは、ヴェートーベンより13歳若い、オーストリア出身の作曲家で、ハイドンに師事し、ハイドンとヴェートーベンの狭間で、一時、人気作曲家であった。企業家でもあり、音楽出版会社やピアノ製造の会社も設立したそうだ。ショパンが弾いたピアノも彼の会社の製品だったらしい。今日取り上げられたのは、プレイエルのヴァイオリンとチェロのためのソナタ6曲。ほとんど演奏されることのない曲だと言う。どれも2楽章構成で、形式を守った前期古典派音楽で、ヴァイオリンにもチェロにも見せ場があり、ハイドンを彷彿させる、ウイットに富んだ作品だった。

ヘンデルからは、ハルヴォルセンによるヴァイオリンとチェロのための編曲で、パッサカリア。パイプオルガンが鳴っているかのような荘厳な響きと美しいメロディ、迫力の演奏に思わず聴衆から感嘆のため息が漏れた。

マルティヌーはチェコ出身の20世紀の作曲家。恥ずかしながら、今まで存在する知らなかった。演奏jされたのは、ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲、第1番と第2番。20世紀的なモダンさが溢れるが、難しい現代音楽ではなく、心地よく聴ける素敵な音楽であった。

こんな素晴らしい演奏会が、さり気なく、歴史的建物の一室で行われるとは、欧州の都市のようで、大阪も捨てたものではない。

2017年 2月24日(金)19:00開演
会場:大阪倶楽部4階ホール
小林幸子(ヴァイオリン)
齋藤千尋(チェロ)
プログラム
プレイエル:ヴァイオリンとチェロのためのソナタ B.501~506 6曲
ヘンデル(ハルヴォルセン編曲):ヴァイオリンとチェロのためのパッサカリア
マルティヌー:ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲 第1番 H.157・第2番 H.371

「読んでいない本について堂々と語る方法」 ピエール バイヤール (著), 大浦 康介 (翻訳)2017年02月25日



☆☆☆☆☆

フランスの大学教授で、作家である ピール バイヤール(Pierre Bayard) 氏の本である。実用書のようなタイトルで、実用書的な枠組みで書かれてはいるのだが、これは、本格的な読書論だ。方法論としての記述は、著者の悪戯で、大真面目を装って書いているのが面白い。

だいたい、この本、古今東西の様々な本(漱石の「吾輩は猫である」も含まれている)から、”読まれていない本について論じられている場面”の例を沢山集めているのだが、そのことだけを見ても、著者の ピール バイヤール氏がどれほどの読書家であるかがわかる。

彼によると、大学の文学部の研究者で、例えば、プルーストの『失われた時を求めて』を読んでいない人は沢山いるし、シェイクスピアの『ハムレット』ですら、読んでいないかもしれない。それでも、職業上、読んでないとは言えず、この本のテーマは、彼らにとっては、極めて重大なものなのだ。

この本の要点は、大胆にまとめてしまうと以下のようになる。 本というものは、物理的な存在であるようで、そうではなく、人々の共通認識である、あるいは個々の人の固有の意識の中に形成され、位置づけられた、抽象概念である。ひとつの本は、物理的な本をインスタンスとして、評論や感想や広告や噂話、売れ行きや、著者の人物像など、それを取り巻く様々な付随情報で形成されたオブジェクトクラスなのだ。「本を読む」というのは、常識的には、本に記載されている文章を読んだということであるが、実際には、本を読んだと言っても、読み方は多種多様であり、以前読んだ本について、どれだけの記憶が残っているのか。実は、新聞広告の内容ほどしか覚えていないこともあるだろし、それすら怪しいこともある。そんな程度なのだから、本を読んでないことに引け目を感じる必要はない。本について語るなんてことは、その本の属するオブジェクトクラスについて、何らかの情報があれば、適当にできるものだ。

この本に引用されている、漱石の「吾輩は猫である」の「迷亭」氏が、アンドレア・デル・サルトの理論とか、ギボンの仏国革命史やら、ハリソンのセオファーノだとかの話をするくだりは、どれも読んでない本について、適当なことを喋り、相手が感心する様子が描かれる。実は読んでいないことを知った相手は、そのような「迷亭」氏のいい加減さに呆れて、もし相手が読んでいて、内容が違うと言われた場合は、どうするのかと問い詰めると、「迷亭」氏は、違う本と間違えたといえばよいと、ひらき直る。これぞ、バイヤール氏の戦略そのものである。私も実は「吾輩は猫である」を通読したことはないのだが、これで「吾輩は猫である」を、自信をもって語れそうだ。

さて、この本の一番大切な(教育的な)メッセージは、読んだ本を自分の図書館のなかで、特徴ある書として位置づけるために、能動的な読み方をしようということだと思う。本のテーマについて自分なりの結論を作るとか、小説の別の展開を考えてみるとか。物理的な本は一つしかないが、それを題材に生まれる抽象的な本というクラスには、様々な位置付けが可能である。

(最近、ちくま学芸文庫としても出版されています。)
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